「ソフティモ」ってほぼほぼ伊野尾くんじゃん。

殺風景感想。

5月17日夜、「殺風景」を観劇。どうにもこうにも言葉にしなければ!と思い、何年も放置していたブログを引っ張り出してきて感想を書き散らすよ!!最初ワードで書いてたから大学のレポートみたいな口調になっちゃった。

以下、感想。

「クソのような」人たちの「クソのような」話。
クソだけど愛すべき、といった生半可なものではない、もっと徹底的にクソのような、でもそれは非現実的では決してなく、どうしたって現実的な、だからこそ目を背けたくなるようなお話。救いがない、否、救いなどを求めること自体が観者のエゴであるかのようにそれは思われる。

東京から大牟田に赴任してきたばかりの刑事は、国男が言うように彼らとは全く違う倫理で生きている。彼は、こちら側からあちら側の世界に入った者であり、つまり演劇における語り手的役割、観者と劇中の世界との媒介者でもあるのだが、その刑事が大牟田に生まれ大牟田に生きるスナックの酔客に言われた「あなたの望むような真実などどこにもない」という言葉は、お話として収まりのいいプロットを求めがちな、観ている私たちに対しても突きつけられてはっとした。

そのような裏切られる瞬間は劇中何度か訪れる。

節子が、兄直也が二人の子供ではないという、夫婦が隠そうと誓った真実を口にしたとき、私はこれが殺人の決定的な理由だったのか、と思った。しかし、それも直也がすでに知っていたと口にして、あまりにもあっさりと覆されてしまう。

西岡徳馬演じる国男が、結局のところ自ら手を下さずに稔に殺せと叫ぶシーンは、もっとも胸糞の悪い場面の一つだった。そこには「お前は俺だ」という父親の息子に対する反吐が出るようなエゴが滲み出ていたし、取調室で国男が大声で主張する自らの倫理の薄っぺらさが際立つ。

「お前は俺だ」は、父親から息子への絶対の愛情であり身勝手な支配だ。

そして私たちもまた八乙女光という同じ人物が演じているが故に、国男が稔に対して抱くのと同じように、一本気で頑なだった若き日のクニオの面影を(救いを求めるかのように)稔に見てしまうのだが、その稔だって「死刑と聞いて急に供述を変え」、「被害者ぶり、死ぬ気もないのに自殺未遂をはか」ることにより、国男そして観者の想いはまた裏切られる。

若いころのクニオとマリと、現代のクニオとマリには大きな断絶がある。(それは違う人間が演じていることによって、強調されているように思う。)それは高度経済成長期がどん詰まりとなり、閉塞感が充満する時代状況と説明することも可能であるが、なによりもまた一人の人間が「老いる」ということでもある。その大きな断絶は、時間の流れの残酷さ、そしてその時間の中で2人が晒されてきた現実の悲惨さ、老いていくということの醜さを容赦無く見る人の前に暴き出す。

若き日のクニオは頑なで一本気で希望のある青年だが、歳をとった国男においてその一本気さがもはや時代錯誤の頑固さでしかなくなって、その頑固さが破滅へと導いていく。

缶けりのコツをもはや忘れてしまったマリ。
(若いころのマリが、缶けりのコツを唐突に話す場面は、マリという人間の魅力が詰まった本当にいいシーンだった)

マリは、節子を殺すとき、かつてクニオの母親に対して言ったセリフと全く同じセリフを吐く。「幸せになる」というその言葉は、それが実現することがなく今後もないであろう故に悲劇的な響きをもつが、他方それでもなおその言葉にすがりつく呪いの言葉のようにも聞こえる。「節子」は、自分の母親であり、クニオの母親であり、マリ自身でもあり、「女」であり、だからこそ、マリは自らの手で節子を殺さなければならなかったのかもしれない。

終盤、先程の刑事が大牟田についての印象を語るのだが、彼はそこで大牟田が自らの出身地埼玉に似ていると言う。彼の言葉は、大牟田という劇中の世界が、一つの特別な異世界、特殊な事情による特殊な世界などではなく、むしろ日本中のあらゆる場所になりうるのであり、彼らは我々にもなりうるということを示唆しているのではないかと思われる。もちろん見ている私たちは薄々と気付いているのだ。この劇で繰り広げられている惨劇、家族というものの息苦しさ、人間のどうしようもないエゴは、多かれ少なかれ身に覚えのあるものだということに。

「穴ぐら」―それは、炭鉱であり、逃げ場のないような閉塞感の象徴であり、そしてまた人が生まれてくる子宮として語られている。国男は、炭鉱の穴ぐらの中でもがき苦しみながら「死に、そして生まれ」た。そして現代の場面では、穴ぐらのような閉塞感の中を突き進み、殺人へと駆り立てられていく。しかし、そもそも生を受けた最初から、彼は穴ぐらの中から生まれている。人間というものの存在の端緒が、既に母親の股という暗い穴ぐらに関係づけられているのだ。

穴ぐらに、出口はないのか。一筋の光が、といった安易な希望を語ることはできない。でも、それでもなお、稔が家を出た姉に掛けた一本の電話で交わされた他愛のない会話、そこに出てくるエスカレーターでみた金色のカナブンに何かを託すことは、私のエゴだろうか。この場面は、セリフのモノローグであるにもかかわらず、映画のワンシーンのように強烈な視覚的印象を残す場面だった。眩しい光の中の黄金色のカナブンの圧倒的な美しさ。

食卓でコンビニのスパゲッティを食べ、サラダを買い忘れたことを謝り、父親がペペロンチーノに醤油をかける、子供の頃行った熱海旅行を思いだし、いつか行きたいね、と話す。それはどこにでもある家族の日常だ。缶けりで隠れる方をやりたい、という母親のために鬼をやってあげる兄弟は、母親への思いやりにあふれている。家族とはそういうものなのだと思う。エゴと憎しみと愛情がないまぜになったまま、それらを全部包み込んだまま、淡々と日常として過ぎていくことができるもの。家族はこの事件によって壊れてしまったわけではない。それはもともと壊れていたともいえるし、しかし、それでもなお、すべてを包み込んで日常として進んでいくものともいえる。それが希望にも救いにもなるかはわからない、新たな悲劇を生むのかもしれない。

大倉孝二は持ち前の「大倉らしさ」の演技によって、劇中に、非常に効果的に奇妙な軽さをもたらしている。演劇において「笑い」は見ているものの感情をふっと緩め、それゆえダイレクトに感情を噴出させる。マリと節子と国男が、殺し殺されるという真っ只中で歌を唄ったシーンで、私は笑いながらぼろぼろ泣いた。

なんというか、もっとも客観的にいうのならば、非常に隙のない脚本だった。音響と照明の演出も素晴らしく、俳優たちの力のこもった演技がその脚本に命を与えていて、全体として大変完成度の高い作品だと思った。もし私が劇評を雑誌に書くような立場だったらそう書くだろう。しかし、ブログという場であるがゆえに、主観をさらけ出すのならば、そのさらに奥で、私の心の根っこをぐわっと掴み、胸が苦しくなるような、いまここで吐き出さなければどうにもこうにもならないような、そんな演劇だった。

おしまい。