「ソフティモ」ってほぼほぼ伊野尾くんじゃん。

カラフト伯父さん 初日

【ネタバレです】



4月25日。爽やかな晴れた陽気の中で、伊野尾くんの舞台、カラフト伯父さんが幕を開けた。

パンフレット未読、双眼鏡もなしで、できるだけ先入観なくフラットに、そして部分ではなく全体を見られるようにしたいと思って観劇した。伊野尾くんが初主演する初舞台を作品としてきちんと鑑賞したいと思っていて、できればその瞬間だけ、伊野尾くんのファンじゃなくていち鑑賞者になりたい、とすら思っていた。

もちろん結局そんなことはできなくて、初演を見終わった私の中に今ある感情は、伊野尾くんという大好きな人の初舞台の初主演という感想と、「カラフト伯父さん」というひとつの作品を身終えた感想が、ごっちゃごちゃのぐっちゃぐちゃになったもので、本当はもう少し整理をして言葉にしたいけど、でも二回目の観劇をする前に、どうしても今の気持ちを吐き出しておきたくて、そのまま書き殴っている。

さて、冒頭トラックを運転しながら出てきた伊野尾くんは、暫く台詞なく無言で室内を動き回るが、その動きや仕草の乱暴さ、ドアの閉め方、椅子の座り方、冷蔵庫の開け方、そんな一挙手一投足からもう、そこにいるのが伊野尾くんではなく徹なんだとわかる。

劇の前半、徹はただただ苛立ちを露わにするだけで、見ている私は徹の苛立ちがわからなくて、そんなに怒ることか?っていう父親の戸惑いは私の戸惑いでもあった。

それが徹が初めて気持ちを爆発させて想いを吐露するあの瞬間、一瞬にして、徹の側に引き寄せられる。

鄭さんはパンフレットにおいてこの劇について「記録としての演劇」と言っていて、そこでの要である、地震の瞬間の体験やそれを経験した人がその後ずっと抱えてきた傷といったものは、全て伊野尾くんが演じる徹の言葉によって語られる、徹が発するその叫びが、その時の臨場感に溢れていて、祈るように叫ぶ「カラフト伯父さん!カラフト伯父さん!」という言葉に、瓦礫の中で、その後トラックの中で叫んでいる徹の姿がオーバーラップして、私はあの瞬間に、10年前の徹の姿、そして10年間という歳月を確かに見た、と思った。すごい演技だった。演者の言葉と身振りだけで、堆積した時間の厚みを見る者に感じさせる、迫力ある演技だった。

劇からは、阪神大震災という経験の「記録としての演劇」が、阪神大震災から20年が経った現在、そして東日本大震災を経た現在の私たちに対して持ちうるリアリティというものについて考えた、と同時に親が子供を思うといった家族の話しでもあった。升さんがパンフレットで言っていたのだけど升さんの演じる吾郎さんは決して人でなしの人物などではなくて、ごく普通の、ちょっとうまくいってない人で、徹もまたごく普通の男の子で、そのごく普通のごく普通の親子の間に決定的な溝をもたらしたのは地震という外的な出来事なんだなって思ったりした。

カーテンコールでは、スタンディング・オベーションがおきて、伊野尾くんがお辞儀をするとひときわ大きな拍手がおきて、伊野尾くんは晴れやかな笑顔だったけど、全然いつもの伊野尾くんで、ああ伊野尾くんだ〜って思った。いままで徹を見てて、ここで初めて伊野尾くんを見たんだな〜って。

初舞台、初主演、初日お疲れさまでした。舞台に立つ伊野尾くんは大きくて、すごくすごくすごくかっこよかったです。素敵な舞台をありがとうございました。