「ソフティモ」ってほぼほぼ伊野尾くんじゃん。

夏のツアーがはじまる。

いよいよ今週の末にHey!Say!JUMPのアルバム「smart」をひっさげたツアーがはじまる。

 

ちわちわちーわ!有岡だよ!みんなに朗報!夏にツアーが決まったよ!

 

という天才有岡大貴(23)から、軽快でシンプルで喜びにあふれる、2014年声に出したい日本語ランキングぶっちぎり一位のフレーズによって、ツアーの決定をお知らせするお手紙が届いてから、3ヶ月。この日をどんなに待ち望んできたか。

 ツアーの発表があった5月11日、私は会場にいた。Live with meと題されたそのコンサートは私にとって初めてのJUMPコンだった。

発表された瞬間の、爆発するような会場中の高揚。嬉しそうな、得意気なメンバーの表情。ぴょんこぴょんこと跳ね回るいのちねの可愛さ。全てが目に焼き付いている。

私は隣に入った伊野尾担の女の子(かわいい)と初対面にも関わらず、ともに歓喜の声を上げ、「絶対行く」と誓い合った。

それからは毎日が祭りだった。べいじゃんでのRELOAD披露。メロゥメロゥ旋風。ユニット曲というファン待望の取り組みに沸く中で、突如放り込まれた謎の「愛追I隊」の文字。そしてReady Goにおける伊野尾くんのyes爆弾。そのたびに私は「JUMP超楽しい!!!」と何度も叫んだ。

 

そして、発売されたアルバムは掛け値なしで全てが良曲だった。

 

JUMPちゃんはアルバムを何度も聞いてツアーに来てね!と言った。おーけい!と私はいい、それから来る日も来る日も来る日もsmartを聞いた。何度聞いてもsmartは名盤でしかなかった。何度聞いても伊野尾くんのソロで顔がにやけた。

 

そんななかで、新曲「ウィークエンダー」「明日へのYELL」の発売が決定。披露されたウィークエンダーはまた阿呆かと思うくらいの名曲。週末への高揚感を軽快なリズムとメロディに乗せて歌うJUMPちゃんたちに心躍ること間違いなし。だいたいにしてMyojoの10000字を読んでこの時期に中島裕翔と山田涼介が同クールでそれぞれドラマの主演を果たし、その主題歌が両A面として発売されるというこのドラマに胸が高まらないなんて到底無理なのだ!!!

とか感動している間もなく、「スーツデイズ」 。

もうね、まだ来るか、と。

いったいどれだけ期待値を上げれば気が済むのか。期待値が大気圏内を突き抜けてしまっている。だってスーツデイズとかどう考えてもふざけているし、そうやってふざける場があるということが既に今のJUMPの置かれた環境の素晴らしさを物語っているわけで。

私は、一度聴いた瞬間から「My World」強火担として、そのセトリ入りを強く願っているのだけれど、この状況でもなおかつまだセトリ入りを強く願える曲があるという事実に震える。

私がJUMPちゃんたちにとってこれが初めてのアルバムをひっさげるツアーだと知り、発表の瞬間のファンたち、そしてメンバーのあの喜びの本当のところを 知ったのは、発表の後だった。そして私は、JUMPちゃんにとって「未来」というものがあまりにまだまだ広がっていることに愕然とした。

私にはこれからJUMPにやってほしいことが数えきれないくらいある。冠番組だってほしいし、写真集だって出してほしい。それ以上に、JUMPちゃんたちはやりたいことがあるだろう。そんな彼らに待ち受けている未来をともに目撃し、体験し、応援できるとはなんてすばらしいことなのだろうか。

ド新規の私から見ても今のJUMPは強い。強さしか感じない。何もわからずにがむしゃらに走り続けてきたなかで培ってきた経験と吸収してきたたくさんのことをベースに、自分たちのやりたいビジョンというものがしっかりと輪郭を持ってきた、そんな感じが伝わってくる。そして尚且つそれを面白いといって実現してくれる人脈や環境も作り上げてきたのだろう。

期待しかないし、期待を超えてくると確信できる。



週末、大阪で、私は泣くかもしれない。

べいじゃんが伊野尾回だった。

JUMP da ベイベー!略してべいじゃん!

毎週金曜日24:30〜25:00、bayfmで放送されているラジオ番組について話したい。

 

「こんばんしゃく~!」という軽快な挨拶から始まるHey!Say!JUMPの有岡大貴と高木雄也によってお届けされるラジオ番組。

 

放送開始が4月なので、開始されてからほぼ3ヶ月経つわけだが、

 

もうね、すごい。

 

毎回、神回。

 

毎回、「あ、今回がベスト神回だわ~」って思うのを更新してくる。毎回神回どころか、毎分毎秒、一言一句すべてが神がかってすばらしい。

 

二人の軽妙なテンポで繰り出される、一ミリたりとも出し惜しみせずに放出される近況情報、メンバーそして事務所内交流の数々、ジュニア時代の思い出などなど、聞き流すことができる話が一つもない。トークテーマすべてが「は??え??ちょっとまってまってまって!!!」って言いたくなるくらいの爆弾。アイドルラジオによくある妄想シチュエーションを恥ずかしなりながらも全力で楽しむ姿勢。最後には音楽の趣味が同じという二人が選んだ二人の好きなおしゃれ洋楽が紹介されるところまで含めて、30分にこんな聞き所詰め込んできます?ちょっと詰め込みすぎじゃないですか?と心配になるくらいのすばらしい番組です。

 

何よりも、二人の声が本当に楽しそうで楽しそうで、二人がこのラジオという媒体を本当に大切に、楽しくやっているのが伝わってくる。

 

今日は、全伊野尾担が歓喜の涙を流しながら狂喜乱舞し、たぶん何人かは昇天して死んでしまった、6月21日に放送されたべいじゃんの文字起こしをしつつ、べいじゃんの素晴らしさを再確認していこうと思う。

 

6月21日は伊野尾くんの誕生日前夜ということで紹介されたお便りがこちら。

 

高:ラジオネームえなさんからですね。さて、6月22日は我らの伊野尾慧様の24回目の御生誕記念日です。

有:ほほほっww

高:そこで提案があります。1.バースデーゲストとしてべいじゃんに呼んでおもてなしをして欲しい。または、バースデーサプライズで、伊野尾慧にですね、生電話をして欲しい。だそうです。

 

この「伊野尾慧様の生誕記念日」という部分を読む高木くんとそれを聞いてる有岡くんがへらへら~って薄ら笑いを浮かべているのがすごくいい。あたかも伊野尾くんをそんなにも想っている人がこの世の中にいることを実感として理解できないみたいなスタンスをとっているように見える。放送開始されてすぐのべいじゃんでも、伊野尾くんをぜひべいじゃんに呼んでくれという伊野尾担の熱いおたよりが紹介されたことがあったんだけど、その時もそうだった。おい!有岡!高木!おまえたちにとってはテキトーな男だぜみたいな感覚の伊野尾くんかもしれないけど、伊野尾慧様の生誕を心よりお祝いして、なんなら伊野尾くんは天から与えられた奇跡の存在とまで思っているひとが結構な数いるんだからな!!って言いたい。

 

有:あぁー、なるほどね!

高:誕生日かぁ!

有:むににの日ですね

高:むにに。むににってなんだよ!

有:でもむににの日って覚えやすくない?

高:おぼっ…完璧に覚えてるもんww

有:忘れないでしょ?むににの日って。

有:まぁね、いろいろ考えてくれた企画ではありますけど…、残念ながらね、今週はね、実現できそうなものがひとつも…

高:そぅ〜、忙しいんだょっ

有:ありませんっ!

高:ごめんなさぃっ。

有:ということで、ちょっとね、いのちゃんについて、生誕記念日を2日後に控えてるということで、ちょっと、伊野尾慧について語ってみますか。

 

伊野尾くん来れないから、じゃぁ今日は伊野尾くんのこといっぱい話す?っていう有岡大貴どう考えても天才すぎる。有岡大貴の天才ぷりが遺憾なく発揮されるべいじゃん素晴らしい。

 

 

①有岡・高木からみた伊野尾くん

 

有:伊野尾ちゃん、でもほんと、大学に在学してたころと卒業してから人が違うように変わった。

高:変わった!

有:大変だったんだろうね、たぶん大学生活が。

高:うん、いろんなストレスがねwww

有:ほんとにね、ほんとに人が変わったようにすげぇ元気になってさぁ

高:すげぇ元気になったなぁー。面白いもんなぁー。

有:面白いよね。なによりマネージャーさんとか、誰とも友達みたいに接するよね。

高:あっ確かにそぅだね!確かにそぅだね!

有:なんなんだろ、お調子者とはまた違う感じ

高:適当なやろぅだょ笑。

有:そこがいいとこですよね。

高:面白いしぃ、頭もいいしね。

有:そぅそぅそぅ、あの意外となんかその、コメントとかさ、ひとりひとりインタビューしてるときとか、いのちゃんのコメントとか聞いてるとね、すげぇしっかりしたこととか言ってて。

高:言ってる。

有:ね!感心ですよ。見直したよ笑。

高:24になんのか。そっかそっかぁ。

有:なんかお祝いできたらいいよね。

 

なんかもう、2人が伊野尾くんのこと好きなんだなって。伊野尾くんが元気なのが嬉しいんだなって。いいお友達がいてよかったわねって。母親の気持ちになる。あと文字起こししてみて気づいたんだが有岡くんの伊野尾くん全肯定ぷりすごい。こんなぽんぽん出るかというくらいにすごい勢いで肯定していくし、適当な野郎だょ、にも即答で「それがいいとこですよね」とか返しててびびる。

 

②伊野尾くんと飲み会

 

高:三人とかでも、最近、有岡くんと俺と伊野尾くんと。

有:あ、いったいったいったいった!

高:ご飯行って。昔のね、ジュニア時代仲良かった友達呼んでね。

有:あったね。

高:食事したりね。

有:懐かしいメンツで集まったりしたね。

有:またね、でもね、いのちゃん結構フットワーク軽いから、意外と来てくれるからwww

高:意外と来てくれるw

有:そぅ、いのちゃんね、意外と来てくれるんですよww

高:いつも、もぅ適当だから、「俺、朝までいるぞぉー」って、どうせいないくせにww

有:「今日は朝まで大フィーバーだな☆」って言って、でもきっちり終電で帰ったりするww言うだけ言ってwww

高:いやほんと面白い男ですょ。

有:また近々行きましょうよ。

高:行こう行こう。楽しみしてよっ。

 

・伊野尾くんは意外とフットワークが軽い

・伊野尾くん高木くん有岡くんがジュニア時代の友人を含めて飲んでいる(←私はジュニア時代について明るくないのでアレですが当時を知っている方々にとっては生唾ものの情報であることは想像に難くない。)

・伊野尾くんは終電できっちり帰る

 

ほらね、ものの3分も満たないトークの中にこれだけの情報を詰め込んでくるんですよ?すごいでしょ、べいじゃんって。これTwitterでもしつこいくらい言ってるんですけどそれでもやっぱり何度でも言いたいんですけど、「今夜は朝まで大フィーバーだな☆」っつって終電できっちり帰る伊野尾くんが伊野尾くん満載すぎて、こんな伊野尾くんを好きにならないなんて無理!!!

 

③伊野尾くんとダンスレッスン

 

有:僕たちのダンスレッスンの話もね、普段なかなかすることないけど、ここらへんでしてみようか。

高:うん。

有:いままでいちばんびっくりしたダンスレッスンは、外国人のね、ダンサーの方がこぅ付いてくれて、ダンスレッスンしてくれたんだけどさ、これほんと、メンバーひとりずつ、私の言う課題に沿って振り付けて踊りなさい、みたいな。

高:ふぅぅーーん、…俺ね、いないわ!

有:あぁっ、いなぃ…かったか!!いや、あの回はすごかったよ!

高:ちょうどね撮影かなんかあって、行けなくてぇ、みんなに聞いて…、よかったぁーって思って!

有:すぅごい、もうね、恥ずかしくてしかたなかったけどがんばってやったよね。俺のね、テーマ、ちなみに犬!

高:んへへへっ。

有:犬になり切って、犬っぽいダンスをするっていう。ま、犬ならまだいいよ!

高:まだね!

有:いのちゃんなんだと思う?あててみ?

高:えーっ、動物?

有:動物ですね。

高:魚!

有:あっ近いかも!

高:近い?

有:近い近い近い

高:タイ?

有:あーっ、ちょっと離れたね。

高:あーうそ。えっ、タコ?

有:あぁーっもうほぼ正解。

有:いのちゃん、イカ!

高:あははははっ

有:いのちゃんイカですよ。

高:むずっ!

有:むずかしいよ!

高:くねくねしてればいいんじゃないの!

有:いやほんと、くねくねしてたよ、いのちゃん。

高:あっまじで、うわ、それちょーーみたぃんだけど!

有:身体全体でイカを表してたよ、がんばって。無茶ぶりですよ、言ったら。

高:急に?考えてこいとかじゃなくて?

有:あでも、ちょっと考える時間はもらった。

高:あ、うそ。

有:俺は一生懸命身体つかって、こぅ鎖に繋がってるブルドッグイメージして、音楽にのせてね、やったりしたよ、ハァハァ言いながら。

高:マジでぇ?よかったぁーーっ、いなくてほんと!!

 

もうね、まずもって、テンポがいい。テンポからしていい。これほんとリアルタイムで聞いてると、「えーっいのちゃんは何の役やったのー?なになにー?イカーー??」って伊野尾くんは何を踊ったでしょうかクイズに一緒に参加してる気分になってすごいわくわくする。有岡くんの話術巧みすぎる。

 

そもそもアイドルのダンスレッスンというなかなか陽の目をみることのない存在が語られること自体も素晴らしいのに、あろうことか有岡くんが犬。そして伊野尾くんがイカ。くねくねしたイカを表現する伊野尾くん、というのももちろんのこと、急に無茶振りされいやいやながら、それでもレッスンなので仕方なくイカを踊る伊野尾くんというのがそもそも萌える。いやいやなにかをする伊野尾慧とか萌える。

 

そして高木くんが「ほんとその場にいなくてよかったぜ!」っていう感じで有岡くんも「高木ずりーよ!」って感じなのが全然いいこぶってなくていいなあと思う。二人にとって「ダンスレッスン」というものが、大人の仕事というよりもまだ子供の学校や習い事に近い感覚を持っていることに、20代前半の男性の中に残っている少年の匂いを嗅ぎつけてしまって堪らない。

 

④伊野尾くんと眉毛

胸キュンおやすみというコーナーはリスナーが投稿した「胸キュン」なセリフを最後に高木くんが言って終わるという、高木くんの甘い声を最大限に活かしたアイドルラジオとして素晴らしいコーナーなのだけれど、だいたい高木くんが胸キュンなセリフを言ったあとに続く有岡くんの一言がおもしろすぎて、むねきゅんの余韻を残すことすら許されないみたいな状況になるのがほぼ毎回。

 

高:お前と、この夜空に、乾杯

有:伊野尾の眉毛にも、乾杯

 

もうここまできたらこちらは完敗です。まずもって意味がわからない。伊野尾くんと眉毛ってそんなにつながる?私、伊野尾くんの眉毛にそんなに笑いの要素を見出したことなかったけれど、JUMP内では伊野尾くんの眉毛はネタ要素なの?なんなの?どうしてなの??というめくるめく疑問を残したままべいじゃんは今日も終わっていくのです…。 

 

ちなみに伊野尾くんのところだけ書き起こしましたが、高木くんが大倉くんと2人で広い個室でお酒を飲んだ話や、高木くんが亀梨くんのおうちにいった話、それを聞いた有岡くんが、俺ないなぁ〜いろいろお喋りしたい!次は有岡くんもいいですかって言って!って言った(死ぬほど可愛い)のも、コスプレの話題から圭人りんと有岡くんが2人でバットマンのフェイスペイントをした話も、高木くんがティンカーベルのコスプレをして後ろのチャックがしまらなかった話も全て同じ回なんですからね!!!一回で中身こんなにたっぷり!大容量!おなかいっぱい!大満足!!!

 

 

伊野尾慧が好きだ。

伊野尾慧が好きだ。


自分でも思いがけないことになったと思っている。デビューしたとき「なんかへんな名前」と思ったのを朧げに記憶している、そんなHey!Say!JUMPが、いまや私の生活の中心を占めつつあるのだ。人生とはわからない。


昨年末くらいから兆候はあった。伊野尾慧という名前を最初に目にしたのをよく覚えていないのだが、きっとTLにふとした拍子で流れてきたのだと思う。そのルックスの良さと、どうやら一筋縄ではいかなそうな匂いを感じとって(私は一筋縄ではいかなさそうな人が大好きだ)、私の中に「伊野尾くん」は気になる存在としてインプットされた。


そんな中、2014年1月、突如として降ってきた伊野尾慧金髪の報。


あの黒髪のかわいこちゃんが金髪に…?という驚きもさることながら、私の脳裏に浮かんだのは以下のような想いだった。


金髪伊野尾は、伊野尾史上における貴重なドキュメントになることが約束されているので、今後金髪の伊野尾くんが載った雑誌や写真等は積極的に購入保存していこうと決意した。それで10年後とかに引っ張りだしてうふふって言うんだ。


これは当時の私のツイートである。伊野尾くんをずっと追いかけてきたわけでもないにも関わらずこの使命感。謎である。この時点で伊野尾担であるという意識はなかったのだが、今読み返すと完全に堕ちている。


そんなふうに、私の2014年は伊野尾慧の金髪とともにはじまった。


ちなみに私がこのツイートをした僅か1週間後には伊野尾くんが黒髪に戻したという報せが流れて私を愕然とさせた。金髪狂想曲を経て、結局のところ残ったものは伊野尾くんへの気持ちだけであり、私はもう参った降参だと白旗を上げ伊野尾担に加わった。



伊野尾慧について語るのは難しい。


伊野尾くんについてなにか言葉にしようとするとき、いつも言葉を発した瞬間、その言葉が伊野尾くんの魅力の全てを表現できてないことに気づいて歯痒い思いをする。


伊野尾くんの何が一番好きかと聞かれれば迷いなく「顔」と答えるくらい伊野尾くんの顔面は素晴らしいのだけど、それをぴたりと言い当てることばを私は知らず、いつも仕方なく「可愛い」という言葉によって表現してる、という感じだ。


伊野尾くんは奇跡的なバランスでできている。


白くてもちもちして白玉みたいで、産まれたての赤ちゃんみたいなんだけど、同時に色っぽくて艶やかで甘美で、官能的と言ってもいいほどで、それはもうこの世のものじゃないどう考えても天使と思う一方で、本当にリアルな普通の男子大学生の雰囲気も持っていて、もうシンプルにかっこいいわけで、そして本当に不思議なんだけど、伊野尾くんにおいては多彩な表情をころころと見せるというよりもこれら全てが同時に共存しているように思える。ほんとうに奇跡のバランスで。


そしてそんなもちもちしたお顔をしているのに身体は細くて薄っぺらくて華奢で、身体は華奢で女性的なのに、腕は案外男らしくてびっくりするし、でも手は綺麗で美しいのでまた二重にびっくりする。


伊野尾くんの内面、人格についてはさらに私は語る言葉を知らない。まだ知らないことばかりだし、はっきり言って顔面の圧倒的美しさを前に内面についてあれこれ考えるところまで至らない。私にとって伊野尾慧は考察の対象というよりただただ享受する存在という感じだ。


ただ、伊野尾くんは適当だとよく言われて、私もそう思う。私は伊野尾くんの適当さをすごくいいと思っている。適当なことしか言わないというのは、一つの意思であり一つの優しさである、と常々思っていて。シリアスな話というのは場の空気を時に壊すわけで、もちろんそれを経て分かり合えることも多いけど、適当なことしか言わない人はその場の空気を壊すことを嫌がる、というか空気をあえて壊さなくてもいいんじゃないか、と思っているんだと思う。分かり合うということをもっと深い次元で捉えているんじゃないかという気すらする。



さて、そんな伊野尾くんが今日24歳になったんだって。こんなど新規の私がいうのもおこがましいけれどここのところの伊野尾くんに吹いている追風は目を見張るものがある。


24歳で吹くこの追風は強い、ということは、伊野尾くんより少し長く生きている身として確信している。24歳という年齢は、風に足を取られることもなく帆を張って風を自分のものにできるだけの下地を伊野尾くんに作ってきたことだろう。


伊野尾くんが今自分に吹いている追風をどう思っているのかな、と時々想像する。想像してみたところで答えは出るはずないけれど。


伊野尾くんには、24歳になっても簡単に本心など語らずに、へらへら〜って笑いながら、なんてことないような素振りで、追風を華奢な身体で受けて進んで行ってほしい。


私は、初めて一人で出演したドラマのクランクアップで流したという涙に勝手に想像を膨らませて胸をいっぱいにし、今日も伊野尾慧を成立させている奇跡のバランスを前にして、ただただ言葉をなくし、言葉を紡げないことに絶望し涙する。気持ち悪いね!!


伊野尾慧くんお誕生日おめでとう。

殺風景感想。

5月17日夜、「殺風景」を観劇。どうにもこうにも言葉にしなければ!と思い、何年も放置していたブログを引っ張り出してきて感想を書き散らすよ!!最初ワードで書いてたから大学のレポートみたいな口調になっちゃった。

以下、感想。

「クソのような」人たちの「クソのような」話。
クソだけど愛すべき、といった生半可なものではない、もっと徹底的にクソのような、でもそれは非現実的では決してなく、どうしたって現実的な、だからこそ目を背けたくなるようなお話。救いがない、否、救いなどを求めること自体が観者のエゴであるかのようにそれは思われる。

東京から大牟田に赴任してきたばかりの刑事は、国男が言うように彼らとは全く違う倫理で生きている。彼は、こちら側からあちら側の世界に入った者であり、つまり演劇における語り手的役割、観者と劇中の世界との媒介者でもあるのだが、その刑事が大牟田に生まれ大牟田に生きるスナックの酔客に言われた「あなたの望むような真実などどこにもない」という言葉は、お話として収まりのいいプロットを求めがちな、観ている私たちに対しても突きつけられてはっとした。

そのような裏切られる瞬間は劇中何度か訪れる。

節子が、兄直也が二人の子供ではないという、夫婦が隠そうと誓った真実を口にしたとき、私はこれが殺人の決定的な理由だったのか、と思った。しかし、それも直也がすでに知っていたと口にして、あまりにもあっさりと覆されてしまう。

西岡徳馬演じる国男が、結局のところ自ら手を下さずに稔に殺せと叫ぶシーンは、もっとも胸糞の悪い場面の一つだった。そこには「お前は俺だ」という父親の息子に対する反吐が出るようなエゴが滲み出ていたし、取調室で国男が大声で主張する自らの倫理の薄っぺらさが際立つ。

「お前は俺だ」は、父親から息子への絶対の愛情であり身勝手な支配だ。

そして私たちもまた八乙女光という同じ人物が演じているが故に、国男が稔に対して抱くのと同じように、一本気で頑なだった若き日のクニオの面影を(救いを求めるかのように)稔に見てしまうのだが、その稔だって「死刑と聞いて急に供述を変え」、「被害者ぶり、死ぬ気もないのに自殺未遂をはか」ることにより、国男そして観者の想いはまた裏切られる。

若いころのクニオとマリと、現代のクニオとマリには大きな断絶がある。(それは違う人間が演じていることによって、強調されているように思う。)それは高度経済成長期がどん詰まりとなり、閉塞感が充満する時代状況と説明することも可能であるが、なによりもまた一人の人間が「老いる」ということでもある。その大きな断絶は、時間の流れの残酷さ、そしてその時間の中で2人が晒されてきた現実の悲惨さ、老いていくということの醜さを容赦無く見る人の前に暴き出す。

若き日のクニオは頑なで一本気で希望のある青年だが、歳をとった国男においてその一本気さがもはや時代錯誤の頑固さでしかなくなって、その頑固さが破滅へと導いていく。

缶けりのコツをもはや忘れてしまったマリ。
(若いころのマリが、缶けりのコツを唐突に話す場面は、マリという人間の魅力が詰まった本当にいいシーンだった)

マリは、節子を殺すとき、かつてクニオの母親に対して言ったセリフと全く同じセリフを吐く。「幸せになる」というその言葉は、それが実現することがなく今後もないであろう故に悲劇的な響きをもつが、他方それでもなおその言葉にすがりつく呪いの言葉のようにも聞こえる。「節子」は、自分の母親であり、クニオの母親であり、マリ自身でもあり、「女」であり、だからこそ、マリは自らの手で節子を殺さなければならなかったのかもしれない。

終盤、先程の刑事が大牟田についての印象を語るのだが、彼はそこで大牟田が自らの出身地埼玉に似ていると言う。彼の言葉は、大牟田という劇中の世界が、一つの特別な異世界、特殊な事情による特殊な世界などではなく、むしろ日本中のあらゆる場所になりうるのであり、彼らは我々にもなりうるということを示唆しているのではないかと思われる。もちろん見ている私たちは薄々と気付いているのだ。この劇で繰り広げられている惨劇、家族というものの息苦しさ、人間のどうしようもないエゴは、多かれ少なかれ身に覚えのあるものだということに。

「穴ぐら」―それは、炭鉱であり、逃げ場のないような閉塞感の象徴であり、そしてまた人が生まれてくる子宮として語られている。国男は、炭鉱の穴ぐらの中でもがき苦しみながら「死に、そして生まれ」た。そして現代の場面では、穴ぐらのような閉塞感の中を突き進み、殺人へと駆り立てられていく。しかし、そもそも生を受けた最初から、彼は穴ぐらの中から生まれている。人間というものの存在の端緒が、既に母親の股という暗い穴ぐらに関係づけられているのだ。

穴ぐらに、出口はないのか。一筋の光が、といった安易な希望を語ることはできない。でも、それでもなお、稔が家を出た姉に掛けた一本の電話で交わされた他愛のない会話、そこに出てくるエスカレーターでみた金色のカナブンに何かを託すことは、私のエゴだろうか。この場面は、セリフのモノローグであるにもかかわらず、映画のワンシーンのように強烈な視覚的印象を残す場面だった。眩しい光の中の黄金色のカナブンの圧倒的な美しさ。

食卓でコンビニのスパゲッティを食べ、サラダを買い忘れたことを謝り、父親がペペロンチーノに醤油をかける、子供の頃行った熱海旅行を思いだし、いつか行きたいね、と話す。それはどこにでもある家族の日常だ。缶けりで隠れる方をやりたい、という母親のために鬼をやってあげる兄弟は、母親への思いやりにあふれている。家族とはそういうものなのだと思う。エゴと憎しみと愛情がないまぜになったまま、それらを全部包み込んだまま、淡々と日常として過ぎていくことができるもの。家族はこの事件によって壊れてしまったわけではない。それはもともと壊れていたともいえるし、しかし、それでもなお、すべてを包み込んで日常として進んでいくものともいえる。それが希望にも救いにもなるかはわからない、新たな悲劇を生むのかもしれない。

大倉孝二は持ち前の「大倉らしさ」の演技によって、劇中に、非常に効果的に奇妙な軽さをもたらしている。演劇において「笑い」は見ているものの感情をふっと緩め、それゆえダイレクトに感情を噴出させる。マリと節子と国男が、殺し殺されるという真っ只中で歌を唄ったシーンで、私は笑いながらぼろぼろ泣いた。

なんというか、もっとも客観的にいうのならば、非常に隙のない脚本だった。音響と照明の演出も素晴らしく、俳優たちの力のこもった演技がその脚本に命を与えていて、全体として大変完成度の高い作品だと思った。もし私が劇評を雑誌に書くような立場だったらそう書くだろう。しかし、ブログという場であるがゆえに、主観をさらけ出すのならば、そのさらに奥で、私の心の根っこをぐわっと掴み、胸が苦しくなるような、いまここで吐き出さなければどうにもこうにもならないような、そんな演劇だった。

おしまい。